ー 12月の変わり玉 ー
どうしたのだろう。私は見晴らし通りの真ん中で大宮駅の方向を見る。けれど祖父は来ない。
さっき、母が言ったのだ。
「ともこ。おじいちゃんが大宮駅に着く時間だから、見晴らし通りまで迎えに出ていてちょうだい」と。
年末年始を迎える十二月の母は忙しい。それで私が祖父の迎えを頼まれたのだ。
だけと祖父はまだ来ない。 広場で富士山を見ているのだろうか。
私は広場に行く。広場の真ん中で何かがキラッと光った。きのう遊んだビー玉だ。
あっ。中村蕎麦屋のガラスが割れている。割ったのは、キャッチ・ボールをしていた中学生・・・。
私は急に不安になり駅へと走る。
アメリカ人のようにきれいな顔をしたハマチョウ化粧品店の店員さんが笑っている。
魚一のおじさんが魚を掴み上げまな板の上に載せた。
きっと、あの魚はアッという間にばらばらになる。
床屋さんの前で魚をふり返る。
ムービー大宮のポスターを新しくしている。空色の瞳のジェーン・ラッセルに糊をザーザーと塗りつけた。
ジェーン・ラッセルの瞳は凸凹のあげく糊だらけになった。
そうだ、祖父は見晴し湯の先の駄菓子屋さんに寄っているのかもしれない。
変わり玉が好きだから。
私は駄菓子やの中をのぞく。
けれど……ここにもいない。
毛糸屋、靴屋、食堂を横目に見晴し通りを走り出て駅前を見まわす。
ここにいるのは南京豆を売るおばさん、マスクと軍手を忘れない靴磨きの人たち、輪タクの運転手。
いつも同じ人が同じように黙っている。
そういえば、夏にここで街頭映画を映してくれた人もずっと黙っていた。
「とも子。何してる」
ふり向くと祖父が立っている。大きな祖父は私を見下ろし言った。
「ここで、何を考えていた」
「夏にここでやった街頭映画のこと」
「ふーん、どういう映画をやったのかい」
「日本が戦争に負けた映画」
わたしは歩きながら祖父に小さな紙袋をそっと手渡す。
中身は祖父の大好きな変わり玉が入っている。
祖父が来てから十日過ぎた今日は一月一日の早朝。
「ともこ。お皿を落とさないよう用心して後を付いて行くのよ」
母はわたしに白い小皿に盛られたお雑煮が幾皿も乗るお盆を持たせる。
父が神様にお供えするお雑煮である。
「台所とか井戸とか玄関の松まで、何でこんなにたくさんお供えするの」
私は父に訊く。
すると、父は短く言う。
「建築請負業だからだ。家には神様がいっぱいなんだ」
十時ごろになると出入りの業者がやってくる。いつもとちがうさっぱりとした格好だ。
「おかみさん。明けましておめでとうございやす。昨年中は・・・・・」
どの人も玄関座敷で迎える母に新年の改まった挨拶をする。
そして、印半纏か屋号入りの手ぬぐいまたは清酒を一升母に渡したあと、
母にうながされ雪駄や靴を脱ぎ、祖父と父のいる座敷へ入る。
その光景は夕方まで続き、帰ることのない人で座敷はふくれあがる。
なにかの拍子で座敷からはみ出てしまった人は、あとから来た人を座敷に案内したり、
台所から追加のお節料理を運び始める。やがて、どこからか探してきたお餅を玄関の大火鉢で焼きはじめる。
台所で働く女中さんとお燗番を始める人もいる。やがて、行動範囲は家族がくつろぐ茶の間にひろがる。
そうして、姉達に嫌な顔をされることになる。
お昼過ぎ。
祖父や父の周囲に座る人たちが好き勝手な話を始める。
「棟梁。これからどんな時代になるんでしょうかねぇ」
祖父は父を見ている。
父は黙っている。
「大鉄組は、県の内外を含め、中国の大連までと、さまざまな数の建築を請け負ってきたんですから」
私は父の脇で不思議な杯を見ている。お酒を注ぐと月や花がゆらゆらと出てくる杯である。
「そうですよ棟梁。戦前のような学校建築の予定なんぞはどうでしょうかね。実績を生かしやしょうよ」
棟梁、棟梁と、出入りの業者の顔は、祖父から父へ、父から祖父へと忙しく動いている。
「大鉄組は戦前まで木造時代の埼玉県庁、大宮小学校、護国神社など、
公共事業を中心に隆盛をきわめていた。
だが、戦争で日本の状況が厳しくなり住み込み職人たちも招集されていった。
大宮も焼夷弾が落とされるなど危険な状況となったため、祖父は千葉の本家へ戻ったのである。
本家を守っているのは母の姉である。
母と同じく祖父のおめがねにかなった婿を迎え穏やかに暮らしている。
母にとり大忙しの正月が終わった。七草も過ぎた。
私は千葉へ帰って行く祖父に変わり玉の入った紙袋をそっと手わたす。
明治の半ばに建築請負業を立ち上げた祖父は、その事業を末娘に継がせるため、大宮の二ツ宮の安藤家の次男を婿を迎えた。父の母は川越城の家老、井上五太夫の娘と聞いている。明治維新のため、娘をそれなりにつりあった平民に嫁がせたと聞く。父の母が嫁入りのときは御駕籠の行列が「下に下にぃ」という掛け声とともに到着したと言う。祖母は生涯家事はせず、丸髷を結い正座で過ごしたということである。豪放な祖父と実直な父のコンビは家業を上向きにしたのである。
写真:昭和15年私の姉(長女・初枝ー次女・弘子ー三女・幸子)たちの7・5・3の写真
昭和5年の頃。3兄である淑郎と姉の初枝。
姉の着る法被には我が家の苗字である山アの名が
変体仮名で「や満さ記」と染め抜いてある」
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