今日、笑顔で誰かに接しましたか?
「さあ・・・笑いはしたけれど・・・笑顔で接したかどうか・・・」

自分がおかしくて笑った笑顔と、笑顔で接するということはまったく異なります。

例えば幼児。おもしろいときは純真に笑います。
知らない人には怪訝そうな顔で接します。

けれど、大人になり、親の庇護を離れると、生きていくには肉親だけではない、
多くの人々の支えが必要なのだ、ということわかる時が来るので、
愛される表情、人に配慮することを覚えるようになります。

つまり、自分に磨きをかける年代が到来するのです。
しかし、肉親縁者から有り余るほどの資産と権力を受け継いだり、
職業がらえばっていられる人、常に上から目線でも許されてしまっている場合・・・
無表情でも通ります。
大威張りです。
好印象を与えようなどと、考えなくてもいいのです。
無理やり顔の筋肉を動かし笑顔をつくる必要がないのです。

お金持ちの「裸の王様」は不愉快な表情であれ、人生に支障をきたすことがない、のですから。

そのことをふまえ・・・
あまり笑顔を作らない人・・・っていますね。
合うたびに無表情、怒り顔、横を向く。

そんなであっても特に不自由なく通っていけるからなのでしょう。
自分の人生ですから、お好きな表情でと言う以外ないのですが。

でも、良い笑顔は素敵です。
知らない間柄であれホッとさせてくれます。

1970年6月のギリシャでのこと。

昼食をとるために、エレベーターで最上階のレストランに向かうときのことでした。
混雑しているエレベータ−のドアが閉まる寸前、金髪の男性が乗ってきました。
走ってきたのでしょう、息を切らしています。

そんな男性を私はブスッと見上げていたのでしょうか。
男性はエレベーターのドアに向きを変えるとき。ほほ笑みながら私に言いました。

「旅を楽しんでいますか?」と。

私は間違いかと思わず周囲を見回しました。
が、やはり私への問い掛けです。
私は英会話は出来ません
が、当時、幸いなことに洋画を毎週3本くらい観ていたので
短い言葉に応えることができたのです。

つまり、、私は「・・イエス・・」とだけ応えました。

けれど、その「イエス」の後、私はお返しの言葉を返さなかったのです。

・・・いや、それより何より流暢な英会話力が無かったのです。
broken English をする度胸もありません。

そのため、ただ、笑っていました。

異国の人々と沈黙を乗せたエレベーターが上昇していきます・・・
その間私は
映画のヒロインのような素敵な言葉を返すことも、
優雅にほほ笑むことも出来なかったのです。

エレベータのドアが開きました。
すると金髪の男性が、思い出したように私を振り返り、「幸せに」とニコッと笑いました。

その時も、私はあやふやに笑うだけでした。

私は長旅に疲れ、憂鬱な表情をしていたのだと思います。
そんなことより25歳の私は、周囲への配慮が出来なかったのです。


彼はきっとアメリカ人だと私は思いました。
なぜそう思ったのかというと、やはり、洋画から学んだことで、
40年、50年ほど前の映画にはお国柄とういか気質が明確に現れていたのです。
アメリカ映画は陽気でハッピーエンド。
フランス映画は退廃的で複雑で、余韻が長く難しい方程式のよう。
イタリア映画の多くは、家族の強い絆が絡むとともに、父親が威張っている。物悲しい。

私の拙い推測では、アメリカ人は歴史や伝統に甘えることなく新天地を目指した。
そのときの彼等はある意味弱者のため「私は敵ではない」ことを表す笑顔という力が必要だったのかと。

あの時、金髪男性に気の利いた言葉とほほ笑みを返すことが出来なかった私!
何と言うセンスの無いことよ!

あれこれ嘆く私の前に昼食が運ばれてきました。
その昼食には、何と!野菜の煮込みに混ざり長めのお米が!

お米だ!お米だ!お米だ!お米だ!

私の嘆きと反省は6週間ぶりに味わえるお米に霞のごとくかき消えたのでした。



磨きがかかっていなかったあの頃。
40年経った今でもその場面は鮮やかです。




2010年 晩春の午後に

大宮なんぎん物語
埼玉県下随一の繁華街、大宮南銀座。かつて見晴らし通りと呼ばれていた昭和26年頃からの光景・・・
山田とも子=つぶやき
読売新聞埼玉版 「ほのぼの@タウン」さいたま市レポート集 
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