山田とも子のつぶやき=さいたま模様=野心



 

「野心」・・・

最近、私の耳に、触れることが少なくなった言葉である。
なぜなのか。

もしかすると、作家、松本清張の小説を読む人たちが少なくなったからなのか、
それとも、今の社会で生きている普通の人たちにとり、
「野心」という行動が、立派と解釈されるようになったからなのか。

「野心」とは・・・

1)  現状よりもさらに高い権力・名誉・財力などを得ようとする心。
ここまでは許せる。

だが、

2)ひそかにいだいている分をこえた望み。
(野の獣が人になれないように)なれ服さないで,
害そうとする心・・・ともある。

昔人間の私には、どちらかと言うと、高感度の低いことばである。
だが、現在の人々には

「野心」=「立身出世」=「立派」と、なっているような感じがする。

なぜ「野心」と言う言葉を思い出したかと言うと、
ある知り合いに関わる人の行動からである。

知り合いに関わるその人の出生は霧の中である。
つまり本当かどうか分からないくらいハッキリしない、
頭脳明晰なその人にもかかわらず、矛盾がある、ということである。
そのため、恐らく不幸な生い立ち、つらい青春時代であったのでは?
と詮索したくなるのである。

恐らくその人は、知られたくないたいこと、があったのだろう。
自分が目指すべき理想の人生の邪魔をするであろう、そのことを、
無いことにしたかった。消し去りたかった。
そのためには、過去を払拭せねばならない、という
「野心」を抱いたのだろう。(私の勝手な推理)。

野心の語源】. 中国の史書『春秋左氏伝』に
「諺にいわく、狼子は野心と」とあるように、
本来は狼の子が人に飼われていても飼い主を害そうとするような、
野性の荒々しい本性を意味する漢語であった。
転じて、馴れ服さないで害そうとする心、
他人を害そうとしたり謀反を企てたりする人
意味するようになり、
更に身分不相応の良くない望みを意味するようになった。

利用済となると、言葉巧みに別離し、
次の「野心」のために、渡り鳥のように飛び立つのである。
周囲があんぐりと口を開けびっくりしているというのに。

結果、エリートと呼ばれる仲間に入ったその人は
現在、3ステップアップへとと野心を抱いたらしいのである。  

 H30/5/5


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