中世ヨーロッパの上流家庭の夫人は家にいても手袋をしていたという。
そのわけは、「私は家事をしない地位にあります」ということの表現だったという。
このことに、「いやですねぇ」と、あるアナウンサ−ガコメントしたが・・
どうだろうか。

家事をしないこと、つまり手袋をはめる行為が
「人を見下げている」ことにつなげるのはいかがなものであろうか。

上流家庭に仕える執事は執事としての仕事がある。
洗濯女は洗濯女として、料理人は料理人としての働きやすい服装がある。
加えてプロとしてのプライドもあろう。
みなそれぞれの立場に熱意をもって臨み糧を得ていたのである。
領主から門番に至るまで全員が、立場をくっきりとあらわす服装をもって、
各々の生活を守っていたのではないだろうか。

とういことで・・・・

以前にも書いたが最近の女性の服装はひどすぎる。
ざっと見渡した限りでは、知性が表れていない。
ごった煮でそれぞれの職域、職業にふさわしい服装をしていない。

かつて・・・は、お嬢様はお嬢様らしく、公務員は公務員らしく、
先生は先生らしく、主婦は主婦らしく、芸者さんは芸者さんらしく、
ホステスはホステスらしく・・・・遊び人の姉ちゃんは姉ちゃんらしく、
列挙していくと切りがないのでやめる。

ともかく、一目で職業が判明したものであった。
それだけプロ意識があった。糧を頂く責任、プロ意識があった。

十代なら許せる。
だが、20代、30代の「働く女性」つまり社会を担う年代の女性の
60パーセントが遊び人の姉ちゃん格好とは!
どういうことになっているのだろうか。
それは、だらりと下げた長髪にも言える。

家でごろ寝をした格好で出勤したとしか思えない。
つまり「公務員」「先生」「フリ−タのねえちゃん」「飲み屋のねえちゃん」「浪人学生」、
だれが悪いとは言わないが、皆同じような服装なのだ。
それぞれ頂いた異なる報酬に応ずる精神・・・プロ意識がないのだろうか。

NHKの日曜日午前の政治討論の場面では、
カメラマンまでネクタイを締め場面を撮影している。
国家を論じる場面である。
だから、この番組に関わるすべての人間が、
ある緊張感を持って臨むいということのあらわれなのだろう。

銀行など、ユニホームが定めめられている場合は良い。そうで無い場合、
よほど緊張感をもつ必要がある。そうでなければ、
職場ではペット扱いホステス扱いだろう。

磨きがかかった女性。それは学歴ではない。
たくさんの文学全集を読み、歴史を学び、
現在の自分を認識し、努力することである。

50年ほど昔のアメリカ映画、「若草物語」に、
未熟な娘たちに母親と乳母が「歩き方、話し方、ファッション」等
を教育する美しい場面があった。

さて、一見お姉ちゃんとなってしまった方々よ。
自分もやがて、日本の歴史をつくっていく一員であることを知っていただきたい。

一挙一動にキラリと光る知性が漂う清々しい女性。
それを捜しているのは私だけだろうか。


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