昭和25年~

大宮駅東口に「なんぎん」と呼ばれる埼玉随一の歓楽街がある。
その街には夕暮れが迫るとまちかねたように色とりどりの灯が点る。
その色が様々なように、ここで働く人たちの故郷もさまざまである。

この地の人々は優しい。まるでここで一世紀暮らしてきた人であるかのように、
新人を受け入れる。
風に流されフラリとこの地に根を下ろした人であったとしても、
「なんぎん」で生誕したかのように受け入れる。だから、たちまちこの地に溶け込むのだ。

ふらりと根を下ろした人々の資質の始まりは、恐らく遡ること明治18年ころだろうか…
「大宮停車場」が誕生した頃に始まるのではないだろうか。
それをきっかけに、
大宮駅が上野から東北地方につながる鉄道の途中駅として親しまれ、
京浜東北線、高崎線、東北線、などの線路が入り込むようになるのである。

東北地方から上野へ向かう出稼ぎの一部の人たちは
「一気に上野という大都会へ入る前に、一つ手前の大宮で働き様子をみよう」
「都会の水に慣れてから東京へ行こう」
「故郷へも一本の線路で帰れることだし、競輪も開催しているのでここ大宮で一攫千金を」
という意味を含め、大宮で下車した人もいたであろう。

大宮でふらりと下車した彼等、彼女たいちとっての大宮は、
大都会に飛び込む前のトレーニングの場だったのかもしれない。

かつて南銀座通りは「見晴らし通り」と呼ばれていた。
戦後から昭和30年代半ばまで、富士山を仰ぐことが出来る通りだったからである。
駅から1分という商店街には乾物屋、お風呂や、雑貨屋、酒屋、ミルクホール、
お茶屋・華道茶道稽古所、糸や、魚屋、自転車預かり所、事務所、
医院は内科・耳鼻科・精神科・歯医者などが並び、
ここへ来れば日々の生活は足りる、という豊かな商店街だった。

繁盛店が多く人手を要するため、どの店にも従業員がいた。
東北から働きに来る人材を歓迎、
優しく受け入れる土地柄だったのである。
建築請負業を生業とする私の家の従業員も東北地方出身が多かった。
だが、どの従業員も、大宮が故郷であるかの様に親身に働いていた。

昭和29年ころからであろうか。
見晴らし通りの既存の映画館に加え、我が家の周囲に映画館が増え始めたのは。
つまり、私が家の周囲10メートルら50メートル以内に
5つの映画館が存在することになったのである。

多感であった十代に観たアメリカ映画「風と共に去りぬ」や大映の文学作品。
私は勇気と正義感を、それらの映画により学んだような気がする。
育てられたといっても過言ではない。

その後、商店街「見晴らし通り」は歓楽街「南銀座通り」となり、
さらに大きく様変わりしていくことになるのである。
だが、私にとり嬉しいのは、「路地の幅」と「長さ」と「人々の熱気」が
当時のまま存在していることである。        1970年12月

 
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