象潟~酒田~

酒田港


暑き日を 海にいれたり 最上川



象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟地域の地形である。現在は平地だがかつては潟湖で、それを象「潟」と呼んだ。
国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地。紀元前466年に鳥海山が噴火し、発生した大規模な山体崩壊による流れ山が
日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々ができあがった。やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖ができた。

そして小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形ができあがった。東西の長さは20町(約2200m)、
南北の長さは30町(約3300m)をそれぞれ超える程度であった。江戸時代までは、九十九島・八十八潟が景勝地となり、
「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年)でも[象潟や雨に西施がねぶの花]と読まれた。

奥の細道の目的地のひとつでもあり、松島と並び称された象潟の島々。現在は地震により隆起し、陸地に島がある
変わった景色になっている。田植え時季は周囲の田に水が張られ、往時の九十九島を想像することができる。

 

出羽三山神社のおみくじを携えて巡る
 


 蚶 満 寺

禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れて『奥の細道』のなかで、
「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の象潟の景観を絶賛している。

芭蕉はまた松島(宮城県松島町)の景観との比較もおこなっている。
このなかで「干満珠寺」として登場する。


   

 

 蚶 満 寺
蚶満寺(かんまんじ)は、秋田県にかほ市に所在する曹洞宗の寺院。

奥の細道』最北の地


元禄2年6月、俳聖松尾芭蕉が訪れた。
『奥の細道』のなかで
「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた当時の
象潟の景観を絶賛している。

 

芭蕉の像

   

中国の悲劇の美女西施(せいし 生没年不詳)は、中国の女性。
美人として知られ、王昭君・貂蝉・楊貴妃を合わせて
中国古代四大美女といわれる。

芭蕉は西施を思い浮かべ、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて、
(雨にけむる象潟は、あたかもまぶたを閉じた西施のように美しい)
と詠んでいる。




蚶満寺(かんまんじ)  秋田県にかほ市象潟
象潟の蚶満寺は、円仁の創建。
神功皇后が三韓征伐の途上でシケに遭ってこの地に流れ着き、
皇子(後の応神天皇)を出産した、
という伝承が残されている。

松尾芭蕉をはじめとする文人墨客も多数訪れている。

 

象潟や 雨に西施が ねぶの花芭蕉
芭蕉は
中国の悲劇の美女西施」を思い浮かべ
、「ねぶ」を「ねむの花」と「眠る」にかけて句を詠んでいる。
    

松尾芭蕉は「九十九島(つくもじま)」と呼ばれた象潟の景観を
ほめたたえている。象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟
地域の地形。現在は国の天然記念物。小さな島々には
松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形ができあがった。

東西の長さは20町(約2200m)、南北の長さは
30町(約3300m)をそれぞれ超える程度であった。
江戸時代までは、九十九島・八十八潟が景勝地となり
、「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の
『奥の細道』(1689年)で[象潟や雨に西施がねぶの花]
と読まれた。奥の細道の目的地のひとつでもあり、
松島と並び称された象潟の島々。田植え時季は
周囲の田に水が張られ、往時の九十九島を想像することができる。

 
日和山公園案内図
 

日和山公園
江戸時代千石船の出航の日和を見る丘で、酒田港が一望できる。江戸末期に公開の安全を祈願して常夜燈を置いたのが始まりとされ、繁栄の歴史を示す多くの遺物が点在している。
日本最古級の木造六角灯台や方角石、「北前船」と呼ばれた縮尺二分の一の千石船などの展示品、また、酒田を訪れた文人や墨客の碑も数多くある。
 




「北前船」と呼ばれた縮尺二分の一の千石船
 

あつみ山や 吹浦かけて 夕すヾみ
 

日本海に立つ 中国の悲劇の美女西施」の像
 

汐越(しおこし)や 鶴はぎぬれて 海涼し



 日和山公園から酒田港を望む


暑き日を 海に入れたり 最上川

 

酒田港(さかたこう)は、山形県酒田市にある港湾で、
山形県内を縦断する一級河川の最上川の河口に位置する。
最上川の舟運より運ばれた紅花や米、各地の特産物が
北前船に積まれ、日本海から瀬戸内海を廻って、
大坂、さらには江戸に運ばれた。

1689年 俳人松尾芭蕉が酒田を訪れ、
『暑き日を 海に入れたり 最上川』
の句を詠む。


 

温海山や吹浦かけてゆふ涼芭蕉

 伊東不玉👉玄順・潜淵・淵庵。医師伊東是久の長子として
酒田に生れる。寛文10年(1670)京都に上り長井宗朔の
もとで医学を学ぶ。
天和3年(1683)伊勢の俳人大淀三千風が
仙台の住居を捨てて全国行脚の途中
酒田の不玉を訪ねると、五大堂で句会を開き、
元禄2年(1689)6月松尾芭蕉が奥の細道をたどって
酒田に来た折にはその宿をつとめて親交を結んだという。