さいたま模様
「さいたま模様」の編集者山田とも子が折々のことを書いています。 



懐かしきかな あの頃

 私の蕎籾殻枕を引き抜き、夜の眠りを中断させたのは次女であった(昭和35~7年頃)。

「ともこ、起きて。白鳥座が燃えているみたいよ。私の部屋へ来て」

私は半眠り状態で次女の部屋へと続く階段を上った。

ともかく姉妹五人は次女の部屋に集まった。そしてレースのカーテンをかき分け、かき分け、
次女が指差す方を見ると、ふかく澄んだ闇の中に建つ白鳥座の建物の輪郭を
ちらちらと光るものが走って行く。

「第一、煙が出ていないわ。黒い煙が。あれが火だとしたら変よ。
建物の縁だけをちろちろ燃えるなんて」

 高い声の長女がいつもの特権で決めつける。

「赤いネオン・サインのテストかな?」

 何か言わなくてはと思ったのか、想像力豊かな四女が空想を巡らす。

「白鳥座に電話してみる?」

 次女が長女の横顔を伺うと三女もうなずく。

 長女は間髪を入れず妹たちに圧力を掛ける。

「そんなことをしたら、あの家には夜中に騒いでいる変な娘たちがいるって

いわれるわよ。私は大丈夫だけれど、四人の結婚話にひびくわよ」

 長女のキンキン声に妹たちは一斉にうなずく。

しかし、この真夜中に、白鳥座のだれが電話に出るというのか・・・

・・・ ー中略 ー・・・

 白鳥座と、十メートルも離れていない我が家では、上を下への大騒ぎとなったのである。

  戦前戦後と大宮の警防団の団長であった父は、大宮の空に火災通報のサイレンが鳴り響くと

 同時に、六畳ほどの玄関土間へ走り、柱に掛けてある分厚い藍色の刺し子の消防服と消防兜を

 身に付け、鎌倉時代の武将のような格好とる。その父と競争するように、母は神棚へと走り

 爪先立って棚の上の火打ち石と火打ち金を手探りで掴み、玄関の引き戸を大きく開け、外を

 睨み立つ父へと走り、背後に鑽り火をかける。だが、その鑽り火を受けるのもそこそこに

 父はゼブラの自転車をこぎ出す。だから大抵、そのあと、火災場所を知らせる通報電話が

 鳴り響くのである。火災と言うと迅速である父と母の二人の呼吸は、常に執り行なわれて

いる行事のように、息が合っていた。 そして、火事の翌朝、濡れて色の濃くなった

 消防服の干場は、細身の洒落たゼブラの自転車で、家族は何事もなかったように朝食をとる

というのが、我が家の光景であった。(昭和21~30年頃)

・・・朝もやの明けた白鳥座は、建物を彩っていたすべてが焦げ、一夜にして、

黒く大きな箱が土の中から生えたようにあった。( 昭和35~7年頃)。


白鳥座⇒東宝系の映画館(昭和30年ころまでは見晴らし通りと言う名称の商店街。現在の大宮南銀座通り)



大宮の百年 躍進から成熟へ

大宮区報作成ボランティア(見て歩いてふれあって)

  読売新聞埼玉版 「ほのぼの@タウン」さいたま市レポート集(2004年から2017年迄)
 

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第一回さいたま模様展は、当時、第2公園所長の美濃輪 信さんの「大宮の貴重な自然資源である大宮第2公園に
多くの人々に訪れていただき活性化させたい」 という提案により 「山田とも子個展」としてスタートしました。
その後、第2公園五十嵐所長の共催という協力体制と、参加者の皆様のご協力により、 
以下に記載のような足跡を残すことが出来ました。

伝統ある貴重な資源を活性化させるために、活動をお願い致します。
第1回 さいたま模様2006山田とも子個展 第2回 さいたま模様2007展
さいたま模様2009展覧会 さいたま模様2010展」
さいたま模様2011展 さいたま模様2012展
 さいたま模様2011展では被災地へ義援金を送りました   さいたま模様2012展ではハンカチの木を植樹しました



大宮区報リポーター   氷川の杜うるおいのあるまちづくり協議会運営委員

書元会会員     写真集大宮の百年の編集に携わり、写真と文章が掲載。


1975年8月1日号の週間朝日ー「わが家のこの一枚にみる日本百年」よりー
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